
導入:「ジャンプ読んだ?」社会現象の裏側で
1980年代の日本、子どもから大人まで**「ジャンプ」を読まない人は皆無と言われるほど、週刊少年ジャンプは社会的な現象となったurbanlife.tokyo。友人同士の挨拶が「ジャンプ読んだ?」になるほどの人気ぶりで、1988年末には発行部数が遂に500万部を突破urbanlife.tokyo。『ドラゴンボール』『北斗の拳』『キャプテン翼』『聖闘士星矢』……誰もが知る看板作品が次々と生まれ、少年漫画雑誌の頂点を走り続けた。しかし、その黄金期の輝きの裏側では、作品を生み出す編集部と漫画家たち**が常軌を逸した労働環境に身を置いていたことは、当時表立って語られることはなかった。
「友情・努力・勝利」を旗印に雑誌を作り上げた情熱と引き換えに、現場では徹夜や休日返上は当たり前、締切に追われる過酷な日々があったという。最近になり明かされ始めた当事者たちの証言から、ジャンプ黄金期を陰で支えた人々の実態と、その中から生まれた創作の熱気を振り返る。
編集部:ストライキも起きた極限の職場
週刊少年ジャンプ編集部の1980年代当時の様子を振り返ると、まさに**「労働地獄」とも言うべきエピソードが残されている。創刊期から編集に携わり黄金期を牽引した元編集長・西村繁男氏の著書には、編集部が拡大する中で増えた非正規スタッフたちが酷使され、待遇改善を求めてストライキに踏み切った事件が描かれているmugenmondana.seesaa.net。ストのリーダーは契約社員の遠崎という人物で、西村氏の部下でもあった。編集部内の緊張が頂点に達する中、創刊編集長の長野規氏は鬼の形相で西村氏を叱責し、「ヤクザのような理屈」で遠崎氏を徹底的に押さえ込もうとしたというmugenmondana.seesaa.net。社内で実名を挙げて語られるこのエピソードからも、当時のジャンプ編集部がいかに極限状態**で回っていたかが伺える。
一方、こうした修羅場を日常とする編集者たち自身もまた膨大な業務量を抱えていた。締切前には泊まり込みや徹夜も珍しくなく、家庭を顧みる余裕はない。当時若手編集者だった茨木政彦氏(のちに編集長)は、男性ばかりの編集部について「体育会のノリです」と述懐するmediag.bunka.go.jp。年に一度の社員旅行では羽目を外し、酔った編集者が灰皿を投げる乱痴気騒ぎもあったというmediag.bunka.go.jp。そこには良くも悪くも男児たちの戦場さながらの熱が渦巻いていた。茨木氏によれば、当時の編集者たちは皆「どうやってヒット作を出すか、どうやって奴を出し抜くか」だけを考え、他の編集者はライバル同然。「先輩だってライバルですから、『堀江(先輩編集者)の作ったもん読んでもしょうがないだろ』とか、『鳥嶋(先輩編集者)は楽して名古屋から原稿送らせてよ』みたいな調子」で、大人げない意地の張り合いすら笑い飛ばす空気だったと語るmediag.bunka.go.jp。常に競争心とプレッシャーに晒されながらも、「部数が伸びていく気持ちよさ」が勝り、誰もが一番を目指して突き進んだのだmediag.bunka.go.jp。
漫画家:続く締切、終われない連載
漫画家たちにとっても、週刊連載の重圧は想像を絶するものだった。『ドラゴンボール』の作者鳥山明氏は当時から締切に追われる忙殺ぶりで知られ、「週刊連載のキツさやしんどさ」について度々コメントしているrealsound.jp。鳥山氏の担当編集者で“伝説の編集者”とも呼ばれた鳥嶋和彦氏は、連載期間中に鳥山氏から**「なかなか連載を終わらせてもらえなくて……」**と愚痴を漏らされたことを証言しているbunshun.jp。看板作品ゆえ編集部が容易に終了を認めず、作者自身が限界を感じながらも描き続けざるを得なかった事情がうかがえる。
締切との戦いは過酷で、鳥山氏は高熱を押して原稿を仕上げたこともあった。『Dr.スランプ』のある回では、発熱で朦朧とする中いつの間にか原稿を描き上げてしまい、本人にもペン入れの記憶がないというrealsound.jp。また、時間短縮のために作品内容に工夫を凝らすこともあった。鳥山氏が『ドラゴンボール』で主人公の髪を金髪のスーパーサイヤ人に変身させたのは、「ベタ(黒インク)塗りの手間を省くため」だったとされるrealsound.jp。スクリーントーンさえ「面倒くさがりだから使わない」というほど、効率を最優先せざるを得ない状況だったのだrealsound.jp。
新人や中堅の作家も、人気至上主義のジャンプでは常に打ち切りの恐怖と隣り合わせだった。当時『週刊少年ジャンプ』で次々と作品を発表した漫画家の巻来功士氏は、自身の体験を元に編集者との確執を赤裸々に描いた漫画『連載終了!少年ジャンプ黄金期の舞台裏』を刊行している。巻来氏によれば、連載を持った途端に担当編集者が次々と変わり落ち着かないケースも多く、打ち合わせでも意見が噛み合わないまま物事が進むこともあったという。なかでも忘れられないのが、ある編集者K氏の発言だった。ちょうど巻来氏の作品と、荒木飛呂彦氏の新連載『ジョジョの奇妙な冒険』が同時期に走り出した際、K氏は開口一番こう告げたという。
「巻来君ね…頑張んないと荒木さんに負けて連載終わっちゃうよ」
「副編集長に言われたんだ。うちの雑誌にホラーは2ついらないって。だからアンケート(人気投票)悪い方が終わっちゃうってわけ…頑張らなきゃね」lite-ra.com
当時ホラー色の強い作品を連載していた巻来氏にとって、これは自分の連載が常に打ち切り寸前だと宣告されたも同然だった。案の定、K氏は「ゴッドサイダー」(巻来氏の作品)の今後の展開について建設的な助言をすることもなく、「最終回はいつになるのって(副編集長に)何度も…何度も…聞かれてね。いやだよねぇぇ…」とプレッシャーを伝えるばかりだったというlite-ra.com。実際この作品は1年半で幕を閉じ、巻来氏はジャンプを去る道を選んだ。彼の体験は極端に映るかもしれないが、読者アンケート至上主義を掲げた当時のジャンプでは、多かれ少なかれ作家たちがこうした容赦ない競争と重圧に晒されていたのは事実だ。
情熱と創造:極限が生んだ名作と熱気
苛烈な環境にあっても、編集者と漫画家たちが若さと情熱をぶつけ合ったからこそ、ジャンプ黄金期の創造的熱気が生まれたのもまた事実だ。当時の編集部には「自分の手で新人作家を育ててナンボ」という気概が浸透しておりmediag.bunka.go.jp、発掘した才能を徹底的に鍛え上げる方針が取られていた。urbanlife.tokyo初代編集長・長野規氏は「デビュー前に何十本もボツ(不採用作品)を出す。鳥山明のような新人でも年間50本もボツにして初めて連載を始めさせた」と語っているurbanlife.tokyourbanlife.tokyo。妥協なき指南に耐え抜いた作家たちは力をつけ、結果的に『Dr.スランプ』『キャプテン翼』『北斗の拳』など次々と大ヒット作を世に送り出したのである。
編集者と漫画家が二人三脚で磨き上げた作品もあった。巻来功士氏が新人時代に目の当たりにしたのは、原哲夫氏(『北斗の拳』作画担当)と編集者・堀江信彦氏のコンビだ。一度完成した原稿を堀江氏の要望で全て描き直し、作品の質が飛躍的に向上していく様子に、巻来氏は「優れた漫画家と編集者が二人三脚になれば傑作が生まれるという実例だった」と感嘆しているlite-ra.comlite-ra.com。互いの長所を認め合い短所を補完する関係が創作の場で機能したとき、生まれる成果は計り知れない。実際、『北斗の拳』は熱い友情とバイオレンスを融合させた革新的作品として1980年代の若者文化を席巻し、今なお語り継がれる伝説的漫画となった。
編集現場の熱量も創作を後押しした。売上が右肩上がりだった当時、編集者たちは増刷部数を競うように腕を振るいmediag.bunka.go.jp、「ライバル誌など気にしなくていい」という自信さえ漂っていたmediag.bunka.go.jp。新人編集者でさえ「どうすれば自分の担当作品をヒットさせられるか」に没頭しmediag.bunka.go.jp、作家と二人三脚で作品作りに没入した。その結果放たれたエネルギーは誌面にも宿り、ジャンプ作品ならではの熱狂として読者を魅了する原動力となった。
こうした中、異例とも言えるストイックな働き方で長期連載を成し遂げた作者もいる。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本治氏は1976年の連載開始以来、一度も休載することなく40年もの週刊連載を続けたことで知られる。秋本氏は自ら編み出した“仕事術”で過密スケジュールを乗り切った人物だ。締切厳守はもちろん、執筆時間を朝9時から夜7時までと厳格に定め、昼食と夕食に各1時間の休憩を確保。アシスタントにもタイムカードで出勤管理する徹底ぶりで、「なるべく残業しない」主義を貫いたというjprime.jp。世間一般の「漫画家=徹夜続き」というイメージから程遠い合理的な手法で、“休まない連載”を可能にしたのである。秋本氏は特異な例かもしれないが、その姿勢は当時の編集者たちにも大いに歓迎された。実際、秋本氏は毎回編集部が提示する締切より早く原稿を仕上げ、時には「締切のさらに1週間前」に完成稿が届いたこともあったというjprime.jp。編集者にとってこれほどありがたい作家はなく、まさにプロ中のプロの仕事ぶりであった。
結び:熱狂の遺産と働き方への教訓
1980年代の週刊少年ジャンプ黄金期――そこには、想像を超えるブラックな労働環境が確かに存在した。編集部員は睡眠時間を削り、漫画家たちは心身を極限まで追い込んで、毎週読者を熱狂させる物語を紡ぎ出したのである。だが、その過酷さの中から生まれた作品群は日本のみならず世界中に影響を与え、今もなお愛され続ける文化的遺産となっているmediag.bunka.go.jp。当時を知る人々の証言から浮かび上がるのは、創作者たちの悲鳴と情熱が紙一重で同居した現場の姿だ。振り返れば、あの時代の輝きは彼らの犠牲の上に成り立っていたとも言えるだろう。
社会全体で働き方の見直しが叫ばれる現在、往年のジャンプ編集部や漫画家の働きぶりは「異常」と映るかもしれない。しかし当時の関係者たちは、極限状態さえ**「面白さ」に昇華しようともがき、結果として数々の金字塔を打ち立てた。情熱と創意に満ちた黄金期の裏側には、栄光と苦闘が表裏一体で存在していたのである。良い面も悪い面も含め、1980年代ジャンプ黄金期の物語は、創作の現場における情熱の尊さと労働環境の課題**の両方を後世に伝える貴重な教訓と言えるだろう。
出典: 西村繁男『さらば、わが青春の少年ジャンプ』、中野晴行「マンガ雑誌の黄金時代」インタビュー(文化庁メディア芸術カレントコンテンツ)、辻真先インタビュー(文藝春秋2024年8月号)bunshun.jp、巻来功士『連載終了!少年ジャンプ黄金期の舞台裏』lite-ra.comlite-ra.com、秋本治インタビュー(週刊少年ジャンプ秘伝ガイド)jprime.jpほか.